買書日記

買った本の備忘録。読書日記ではありません。買っただけです。

毒親とか。

 ツイッターのTLで、アルテイシアさんという方の「59番目のマリアージュ」というブログの記事を読んだ。「毒親」というのはここ数年よく聞く言葉だ。私も7年前から人の親になっているので、自分がそうなっているかも、と気になるところでもあり、そして自分の親がそうなのでは、と思うところもある。

 

 というか、私の父親は、典型的にモラハラをする人である。現在進行形でそうだ。「昭和の父親」という言い方をするのは、昭和の幅が広すぎるし、なんでも「昭和」のせいにするのもどうか、という気分にもなるのだが、よく使われている言い方をすればそういうことになる。外面ばかりよくして、家族を犠牲にする典型的な人間であったし、今もそうだ。

 

 ただ、私は、男子だったので、父のモラハラの被害が比較的少なかった。子どもの頃は、父は「男子はこれが当然だ」と無理矢理丸刈りを強制されて、反抗すると一切口も聞いてくれない、つまり小学生の息子を平気で数ヶ月間完全無視するような人間だった。私が丸刈りにしてください、ごめんなさいと詫びをいれて、ようやく口をきいた。これを小学3年生にする男である。

 

 一番被害の大きかったのはやはり母で、自分の了解をなしに母がしたことは、どんな些細なことでもぶち切れて、そして数年間、10年間も無視し続けた。一時は、生活費も入れなかった。給与からしても少なすぎる金銭しか家庭に入れていなかった。何に使っていたかは不明だが、私は外に女性がいたんじゃないかと思っている。母はだからずっとパートをしていたし、大学入試に失敗した姉の学費も、一円も出さなかった。

 

 父のモラハラは今も続いていて、どういうわけか自宅の修繕を極端にいやがり、ぼろぼろになっていく家を修繕したいと母が言っても私が言っても、絶対に拒否する。「オレの家だ」と言い張る。でも、ローン返済の終盤、すでに早期退職していた父は全然お金を払わず、払っていたのは母であった。

 私は何度か父と呶鳴り合ったことがあるが、同居していない私が何か言っても、帰った後報復を受けるのは母になるので、もうやめてしまった。最近は好きにさせるしかない、というあきらめのなかにある。物も全く捨てず、さらに買いだめる癖もあり、父が死んだら、ゴミ屋敷の後の処理をどうするのか、今から考えると憂鬱になる。ゴミ処理費用で何百万かはかかるだろう。

 

 という父への恨みを書き連ねるつもりはなかったのに、書き始めたらボロボロ出てしまった。もっと出てくるけれど、それは私の主観だし、決めつけになっている部分もあるのでもうやめる。

 私が書きたかったのは、自分もそういう父に似た行動をよくしはじめている、ということだ。

 最初に書いたように、父は外面はとてもよくて、友達にも知り合いの家族にも親戚にも「お父さんはとてもいい人だ」とよく言われる。他人の面倒はよく見るのである。それが度を過ぎることもあって、うざがられていることもよくあるのだが、本人は気づかないし、忠告しても怒るだけである。

 で、私はどうか。子どもが生まれて、家事や育児は忙しい。父親よりはずっと分担しているつもりだが、父親はほのゼロなのだから、それと比べるのはハードルが低すぎで、一般的に言えばやってない方である。なにしろ平日は単身赴任で家にいないのだから。

 にもかかわらず、私は他人の仕事を手伝ったりしたがる。そして、ネットで不幸な子どもの話などを読むと、寄付をしたがる。家族のために使う時間、家族のために使うお金、そういうものを、他に使おうとする。気づくとそういうことをしたがっているのである。

 私は外面をよくしたいのか?自覚はないが、そうなのだ。自分の仕事も終わってないのに人の仕事を手伝いたがるのだから、もう病気である。寄付は最近、さすがに経済的にかつかつになってきたので止めているが、クラウドファンディングなどを見ると、一口いれたくなってしまうし、共同募金などをみると、紙幣をいれずにはおれない衝動に駆られる。

 しかし、大事なのは家族である。家族が苦しんだり、家庭内がイヤな空気に満ちたりしている中で、外につながりを持っている自分だけが楽しくhappyな自己満足に浸っている生活は、客観視すれば地獄である。私の父も、本人の主観の中では、家族のことを思っているつもりなのだろうし、その結果、あの重苦しい気持ち悪い家を作っているのだ。私がそうならないとどうして言えるだろう。いや、なりつつあるのだ。

 だから、自分は時間と金銭を、家族最優先にすることを常に意識しなければならない。当たり前だろ、と怒られてしまうかもしれないが、それは怒られて当たり前である。意識し続けないと忘れて他に時間と金銭を使ってしまう、その程度に私は「昭和の父親」なのである。今更「平成の父親」には多分なれないのである。「平成の父親」がどんな父親なのかわからないが。

 自分の人生の残り時間を考え始めるようになった。こどもたちに「死んでよかった」と思われるような父親にはなりたくない。そんなひどいことを思うようなこどもたちではないけれど、負担をあたえてはいけない。当然、妻にも。

 心しなければならないことは、年々増えていく。処理能力は年々衰えていくのに。仕方ない。これが年をとることなんだろう。

 

 

 

 

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