買書日記

買った本の備忘録。読書日記ではありません。買っただけです。

何か書くこと。

せっかくブログを始めたのだから、なんでもいいから毎日書いてみよう、と思ったのだが、びっくりするぐらい書くことが自分の中から出てこない。

 

2001年ごろ、「さるさる日記」という無料のウェブ日記レンタルサービスがあって、それを利用していたときは、毎日毎日書いていて、書き足りないぐらいであったのに、今はそれができないというのは、自分の文章を書く力が格段に落ちているということだろう。これは論文や原稿を書いていて感じることでもある。歳をとったと言うことだ。

 

ただ、物事は何事も継続した訓練が必要なので、私が書けなくなったのは、論文や原稿も含めて、日常何でもいいから何かを書く、という作業を怠っていたせいでもあると思っている。このブログを借りたのも、そのリハビリの意識もあった。でも書けない。仕方ないのかもしれない。がんばって、何かしら書いていきたい。

 

でもまだある。自分の中で、書いてはいけない、と思うことが、この20年近くの間でぐっと増えたのだ。仕事にかんすることはできる限り書かない。私を知っている人が見たら、「買書」を見て私が何者かすぐにわかるだろうし、それを隠すつもりは私にはない。ないので、私が何者かわかったとしても、問題がないことしか書かないようにしている(つもり)である。

昔から、誰に見られても構わないことしか書かない意識をもっていたけれど、ここ数年は、その構わないことのハードルがぐっとあがっている。責任や義務が増えているのである。

 

それは私にとって喜ばしいことで、40過ぎて守るべき責任や義務が20代のころと同じだったら悲しい。私が守らなければいけない責任や義務は、それでも私と同世代、少し下の世代で、ばりばりやっている方々に比べたら全然少ない。だから、やっぱり「書けない」のは私がなまっているからであり、それは「書かない」言い訳なのだ。

 

本を最近買っていないのもあった。何故かというと、けっこう懐が厳しくなっているからで、今年は特に支出が多い。私的にである。あと、さすがに最近、新しい本を買う前に、今まで買いためた本を読もう、という気になってきたので、買うのを抑え気味にしている。もっとも、これから年度末が近づくと、研究書の発刊も続くだろうから、そこで買うことも増えそうだ。現在構想中の論文用の本は、もう大体買ってしまった。ほぼ邱永漢と1980年の選挙にかんするものばかりだけれど。

 

書くことがないということを書く日記、は大変みっともないけれど、自分の恥も含めて、書き残しておくと、何年か後の想い出になるような気もしている。