買書日記

買った本の備忘録。読書日記ではありません。買っただけです。

買った本。

鹿地亘『鹿地亘作品集』(朝日書房 1954年)

 

古書で購入。「脱出」を読むために買った。実は「脱出」自体は結構前に入手だけしていて、読んでおらず、そろそろ読まなければと思って探しても見つからなかったので、再び購入、という次第。蔵書の方は、買ったのではなくどこかの放出品で拾ってきたと記憶している。つまりそれぐらい前に入手していたのに読んでいなかったのだった。

 

当たり前かもしれないが、先の敗戦後、日本では「脱出」というタイトルの作品がけっこう発表・出版されている。正宗白鳥や、駒田信二のものなど。テーマとして「脱出」を扱うとなると、満洲移民の人たちの引き揚げを描いたものが20世紀を通じて出ている。

 

引き揚げについての研究は近年、論文や本が出ている。個人的には、引き揚げと脱出は、重なる部分も大きいけれど、別の事態として捉えようと考えている。

 

今日は台湾に注文していたブルーレイの「幸福路上」が届くはずだったのに、来なかった。海外配送会社、けっこうな大手のはずなのに、配送の事前確認の電話までかけてきて、きちんと時間も場所も伝えたのに、来ない。なにやってんだろうな。

 

 

何か書くこと。

せっかくブログを始めたのだから、なんでもいいから毎日書いてみよう、と思ったのだが、びっくりするぐらい書くことが自分の中から出てこない。

 

2001年ごろ、「さるさる日記」という無料のウェブ日記レンタルサービスがあって、それを利用していたときは、毎日毎日書いていて、書き足りないぐらいであったのに、今はそれができないというのは、自分の文章を書く力が格段に落ちているということだろう。これは論文や原稿を書いていて感じることでもある。歳をとったと言うことだ。

 

ただ、物事は何事も継続した訓練が必要なので、私が書けなくなったのは、論文や原稿も含めて、日常何でもいいから何かを書く、という作業を怠っていたせいでもあると思っている。このブログを借りたのも、そのリハビリの意識もあった。でも書けない。仕方ないのかもしれない。がんばって、何かしら書いていきたい。

 

でもまだある。自分の中で、書いてはいけない、と思うことが、この20年近くの間でぐっと増えたのだ。仕事にかんすることはできる限り書かない。私を知っている人が見たら、「買書」を見て私が何者かすぐにわかるだろうし、それを隠すつもりは私にはない。ないので、私が何者かわかったとしても、問題がないことしか書かないようにしている(つもり)である。

昔から、誰に見られても構わないことしか書かない意識をもっていたけれど、ここ数年は、その構わないことのハードルがぐっとあがっている。責任や義務が増えているのである。

 

それは私にとって喜ばしいことで、40過ぎて守るべき責任や義務が20代のころと同じだったら悲しい。私が守らなければいけない責任や義務は、それでも私と同世代、少し下の世代で、ばりばりやっている方々に比べたら全然少ない。だから、やっぱり「書けない」のは私がなまっているからであり、それは「書かない」言い訳なのだ。

 

本を最近買っていないのもあった。何故かというと、けっこう懐が厳しくなっているからで、今年は特に支出が多い。私的にである。あと、さすがに最近、新しい本を買う前に、今まで買いためた本を読もう、という気になってきたので、買うのを抑え気味にしている。もっとも、これから年度末が近づくと、研究書の発刊も続くだろうから、そこで買うことも増えそうだ。現在構想中の論文用の本は、もう大体買ってしまった。ほぼ邱永漢と1980年の選挙にかんするものばかりだけれど。

 

書くことがないということを書く日記、は大変みっともないけれど、自分の恥も含めて、書き残しておくと、何年か後の想い出になるような気もしている。

 

 

 

毒親とか。

 ツイッターのTLで、アルテイシアさんという方の「59番目のマリアージュ」というブログの記事を読んだ。「毒親」というのはここ数年よく聞く言葉だ。私も7年前から人の親になっているので、自分がそうなっているかも、と気になるところでもあり、そして自分の親がそうなのでは、と思うところもある。

 

 というか、私の父親は、典型的にモラハラをする人である。現在進行形でそうだ。「昭和の父親」という言い方をするのは、昭和の幅が広すぎるし、なんでも「昭和」のせいにするのもどうか、という気分にもなるのだが、よく使われている言い方をすればそういうことになる。外面ばかりよくして、家族を犠牲にする典型的な人間であったし、今もそうだ。

 

 ただ、私は、男子だったので、父のモラハラの被害が比較的少なかった。子どもの頃は、父は「男子はこれが当然だ」と無理矢理丸刈りを強制されて、反抗すると一切口も聞いてくれない、つまり小学生の息子を平気で数ヶ月間完全無視するような人間だった。私が丸刈りにしてください、ごめんなさいと詫びをいれて、ようやく口をきいた。これを小学3年生にする男である。

 

 一番被害の大きかったのはやはり母で、自分の了解をなしに母がしたことは、どんな些細なことでもぶち切れて、そして数年間、10年間も無視し続けた。一時は、生活費も入れなかった。給与からしても少なすぎる金銭しか家庭に入れていなかった。何に使っていたかは不明だが、私は外に女性がいたんじゃないかと思っている。母はだからずっとパートをしていたし、大学入試に失敗した姉の学費も、一円も出さなかった。

 

 父のモラハラは今も続いていて、どういうわけか自宅の修繕を極端にいやがり、ぼろぼろになっていく家を修繕したいと母が言っても私が言っても、絶対に拒否する。「オレの家だ」と言い張る。でも、ローン返済の終盤、すでに早期退職していた父は全然お金を払わず、払っていたのは母であった。

 私は何度か父と呶鳴り合ったことがあるが、同居していない私が何か言っても、帰った後報復を受けるのは母になるので、もうやめてしまった。最近は好きにさせるしかない、というあきらめのなかにある。物も全く捨てず、さらに買いだめる癖もあり、父が死んだら、ゴミ屋敷の後の処理をどうするのか、今から考えると憂鬱になる。ゴミ処理費用で何百万かはかかるだろう。

 

 という父への恨みを書き連ねるつもりはなかったのに、書き始めたらボロボロ出てしまった。もっと出てくるけれど、それは私の主観だし、決めつけになっている部分もあるのでもうやめる。

 私が書きたかったのは、自分もそういう父に似た行動をよくしはじめている、ということだ。

 最初に書いたように、父は外面はとてもよくて、友達にも知り合いの家族にも親戚にも「お父さんはとてもいい人だ」とよく言われる。他人の面倒はよく見るのである。それが度を過ぎることもあって、うざがられていることもよくあるのだが、本人は気づかないし、忠告しても怒るだけである。

 で、私はどうか。子どもが生まれて、家事や育児は忙しい。父親よりはずっと分担しているつもりだが、父親はほのゼロなのだから、それと比べるのはハードルが低すぎで、一般的に言えばやってない方である。なにしろ平日は単身赴任で家にいないのだから。

 にもかかわらず、私は他人の仕事を手伝ったりしたがる。そして、ネットで不幸な子どもの話などを読むと、寄付をしたがる。家族のために使う時間、家族のために使うお金、そういうものを、他に使おうとする。気づくとそういうことをしたがっているのである。

 私は外面をよくしたいのか?自覚はないが、そうなのだ。自分の仕事も終わってないのに人の仕事を手伝いたがるのだから、もう病気である。寄付は最近、さすがに経済的にかつかつになってきたので止めているが、クラウドファンディングなどを見ると、一口いれたくなってしまうし、共同募金などをみると、紙幣をいれずにはおれない衝動に駆られる。

 しかし、大事なのは家族である。家族が苦しんだり、家庭内がイヤな空気に満ちたりしている中で、外につながりを持っている自分だけが楽しくhappyな自己満足に浸っている生活は、客観視すれば地獄である。私の父も、本人の主観の中では、家族のことを思っているつもりなのだろうし、その結果、あの重苦しい気持ち悪い家を作っているのだ。私がそうならないとどうして言えるだろう。いや、なりつつあるのだ。

 だから、自分は時間と金銭を、家族最優先にすることを常に意識しなければならない。当たり前だろ、と怒られてしまうかもしれないが、それは怒られて当たり前である。意識し続けないと忘れて他に時間と金銭を使ってしまう、その程度に私は「昭和の父親」なのである。今更「平成の父親」には多分なれないのである。「平成の父親」がどんな父親なのかわからないが。

 自分の人生の残り時間を考え始めるようになった。こどもたちに「死んでよかった」と思われるような父親にはなりたくない。そんなひどいことを思うようなこどもたちではないけれど、負担をあたえてはいけない。当然、妻にも。

 心しなければならないことは、年々増えていく。処理能力は年々衰えていくのに。仕方ない。これが年をとることなんだろう。

 

 

 

 

am-our.com

 

 

昨日届いていた本。

 

矢崎泰久『変節の人 かつての同志が告発する青島幸男の正体』(飛鳥新社 1997年)

 

1980年参議院選挙と邱永漢、についての調査からどんどんずれていってたどり着いた本。ウェブ検索していて見つけた。

1980年の参議院選挙全国区に立候補・当選した「タレント候補」の一人・中山千夏の公設秘書であった矢崎泰久が書いた青島幸男バッシング本。

矢崎が青島幸男をバッシングしているのは、1983年の参議院選挙の際、中山と青島、それに美濃部亮吉、八代栄太といった当時無所属の参議院議員だったメンバーが作った新会派内で内紛があったから。

 このときに無所属議員たちが新会派を作ったのは、1983年から参議院で全国区が廃止され、比例代表制が導入されたためだった。全国区は、その名の通り、全国を一つの選挙区として議員が選出される仕組みで、日本中から票を集めなければならないので、組織力、資金力、知名度がなければ当選は難しかった。逆にいうと、タレント議員が当選しやすかった。全国区は「カネがかかりすぎる」とずっと批判されていて、それが1983年になくなっていたのである。そうすると、政党に属して比例名簿に載らないと、そもそも立候補すらできなくなる(中選挙区からの立候補・当選が難しかったのでしょう)全国区出身タレント議員が、当選のために手を組んだのであった。

 

が、ここでこの比例名簿の順位を巡って内紛がおきたのである。詳細はよそにいくらでも書いてあるので省くとして、矢崎がこの本で激ギレしているのは、中山千夏が矢崎をこのときの比例名簿で1位にしようと推したのに対し、青島他が反対して、主たるタレント議員がこの新会派から離脱してしまい、さらに矢崎と中山の間に性的関係があるというニュースまで流れてスキャンダル扱いになったために、強行出馬した矢崎が落選した、というところにあるようだ。自分が落ちたのも新党構想がパーになったのも、ほぼ全て青島のスタンドプレーと陰謀のせいである、という書き方。

 

これが本当か恨み節なのかは知らない。が、矢崎は邱永漢本人とももめている。矢崎は雑誌編集者でもあって、当時『話の特集』という雑誌を出していた。その雑誌が一時経営難になった際、邱永漢が出資して救った時期があった。このあと邱永漢と矢崎が経営権を巡って争ったようである。邱永漢も矢崎もそれぞれ当時のことを書いているが、どっちが正しいのかもわからない。今、手元に資料もないので詳細に書けない。

 

矢崎は1980年の選挙当時のタレント議員について書いているが、邱永漢の立候補については全く触れていない。邱永漢も、中山千夏青島幸男といった、同時に立候補したタレント候補について全く書かない。でも知らなかったはずはないので、その辺無視するのは何でかな、と思わなくもない。まあ、邱永漢自民党推薦、他のタレント候補は革新系無所属なので、立場的に考慮する相手じゃなかったのかもしれない。

 

 

 

昨日届いた本。

 

上田誠二『「混血児」の戦後史』(青弓社 2018年)

河原功編『台湾出版警察報』(不二出版 2001年)

 

下地ローレンス吉孝『「混血」と「日本人」』とほぼ同時に出た上田著。今書いている(停滞している)原稿に関わるので購入。

『台湾出版警察報』は17年も前に出ているけれど、今回、検閲に関する調査をしてみて、改めて必要性を感じて購入。今月末に出る河原功編『台湾総督府 第60回帝国議会説明資料』もほしいけれど、年度半ばでこの価格の本を連続購入は厳しい。年度末の状況次第。残念無念。

 

届いた本。

 

山本七平『人望の研究』(祥伝社

ジェロニモスティルトン『ねずみたんていノート ジェロニモとダ・ビンチュ・コードのなぞ』(KADOKAWA

 

『人望の研究』は、中に1983年の参議院議員選挙から、「全国区」選挙区が廃止され、比例代表制が導入されたことにより、参議院「全国区」選出の無所属議員たちが比例代表制対応のために作った「無党派クラブ」が内部対立で崩壊した様子を描いているので購入。1980年の参議院議員選挙の全国区について調べていて、その年の全国区に「タレント議員」として当選した人々の三年後なので、読んでみた。1980年の選挙に注目しているのは、当然ながら、邱永漢が全国区に立候補しているからである。そして落選している。

ジェロニモスティルトンの本は、子供の希望。絵本かと思ったら、ほぼ漫画だった。私は漫画好きなので全然かまわないのだが、連れ合いは子供が漫画ばかり読んで本を読まない、と気にしているので、これ大丈夫か?とちょっと焦った。

 この本、翻訳書のような体裁で、KADOKAWAの書籍紹介ページでもそれっぽく書かれているけれど(日本人イラストレーターによる描き下ろしイラスト、とか)、ジェロニモスティルトン非実在原作者っぽい。翻訳者名も載ってないし。ということは、イラストレーターの人(やまもと妹子、とある)が、真の作者なのだろうか。なんかめんどくさい仕組みである。

 

ねずみたんていノート ジェロニモダ・ヴィンチュ・コードのなぞ

本日届いた本。

 

『舞台戯曲』1929年11月号。

 

 いろいろ手違い?があって、届くのに時間がかかった。田郷虎雄の戯曲「峠に石を蹴る(一幕)」が掲載されているので購入。

 

 田郷虎雄が戯曲「印度」によって第6回『改造』懸賞創作に二等当選したのは1931年4月。その2年前に『舞台戯曲』に戯曲が掲載されているわけだが、田郷は「印度」の当選によってデビューしたと言われている。このへん、どう扱うべきなのか、ちょっと考える。

 田郷は「飛鳥清彦」の筆名で少女小説も描いていた。そのため、岩淵宏子他編『少女小説事典』(東京堂出版 2015年)にも作家として立項されている。が、同書での田郷の記事はちょっとおかしい。例えば、田郷の没年が「1950(昭和7)年」と書いてあったり、「戯曲「印度」(1931)が『改造』の懸賞に当選して以降、「白百合の花」(1930)などの戯曲を発表する」とあったりする。私は田郷の戦前の少女雑誌掲載分のテクストの収集がうまくいってないので(戦前の少女雑誌は古書でも値が高い)、きちんとした確認ができていないが、たぶん「白百合の花」は1932年の『少女倶楽部』に掲載されたもののことだろう。

 

 書いているうちに、なんとか少女小説も収集したくなってきたが、やっぱり高くて無理だろう。